2012年6月 タッパンジー・ブリッジ

2000年 2種類のバスが見える

2006年12月 駅前駐車場

2006年11月 増設された河側駐車場











 1986年5月 向こうは下りホーム
一両目の後に駅舎の屋根が見える
跨線橋は建設当時のものを、暫く前 に囲っただけ。 1970年代でも剥き 出しの橋で、雪で滑った。 床板も  磨り減って所々に穴が。

2006年11月 1980年代に増設された 跨線橋から。古い方も完全な閉鎖式となり、エレヴェターが付設された




1975年の切符。ペンセントラル(鉄道)時代。

PCは倒産し、国の資金でコンレールとなった時

緑のカードを車掌が座席に挟んでいく
左2枚は自動販売機での領収書



  1974年1月 右側が旧形電車

 1982年2月 大雪で救援機関車に 牽かれてグランド・セントラルに入駅







  バー・カー

















































































2010年4月 対岸の木の高さに注意


 

 


























 2012年6月 川崎工場 右端の渡り廊下は旧地下鉄車体を流用

 2006年11月 
 ニュー・ヨーク市地下鉄製造中



































































 2016年7月 橋の手前に分岐器があり、三角線を形成していた

 2012年6月 スパイトン・ダイヴィルの駅が見える

2012年6月ヘンリー・ハドソン橋




























  2006年11月 
  マーブル・ヒル駅 上がアパートの敷地 柱の間に  ヘンリー・ハドソン・ブリッジ が見える  左側は公園








 橋の1階部分



























































































  2012年6月



ニュー・ヘイヴン、ハーレム線との合流点近く 左の線路はボストン方面への渡り線
























1975年 吊橋はトライボロー・ブリッジのクイーンズ区側
左側ビルの陰辺りで道路が拡がりT字型に入る
吊橋の奥は有名はヘルゲート鉄道橋

























2010年かすかに見えるウイリアムスバーグ・ブリッジ

マンハッタン・ブリッジ地下鉄から 反対側も地下鉄線路

1986年 手前がブルクッリン・ブリッジ、次がマンハッタン・ブリッジ

































パーク・アヴェニューの下に潜って行く








1970年代

2012年

1970年代 オイスター・バー


  

  ニュー・ヨーク市へ

 さてタレイタウンの駅から電車に乗ってマンハッタンに出てみまよう。
朝、駅舎の前に立っていると、ウエストチェスター郡が民間会社に委託運営しているビー・ライン(蜂のビーです)のバスが約20分おきにやって来ます。
それ以外に、グリーンとホワイトのバスが来ては客を落して行きますが、このバスに、この時間、乗り込む人はまずいない。 タッパン・ジー・ブリッジの乗用車交通量を減らす為に、川向こうのロックランド郡が民間に委託をし、ホワイト・プレーンズ迄走らせているバスです。
私が引越して来た頃には勿論ありませんでした。 運行開始当初はガラガラでしたが、最近では殆どの席が埋まっているように見受けます。
時間によっては一本の電車につき、二台のバスが連なります。 
通勤バスとはいっても日本の長距離バスと同じタイプ。 別に自家用車離れさせる為に贅沢させている事ではなく、ハイウエーを走るバスは安全上、全乗客のシートを確保しなければならないという規則からです。

 昔は駐車場も空きが随分あり、川向こうの通勤客も駐車していましたが、今や各駅の悩みは駐車場の容量。 8時前にはもう街側の駐車場 (2013年1月  現在、駅前駐車場があった場所の2/3は移設された町役場と警察署になっており、河側を広げましたが、以前より駐車可能台数は減っているのではないか、と思います) は満杯。 
河側の方も空きを見つけるのに手間がかかり、大雪の時は寄せられた雪で空きが見つからない事もあります。
それ以外にプラットフォームに沿ってパーキング・メーター付の駐車スペースがありますが、メーター・パークでも小銭を大量に抱え、一日中パークする人が殆ど。一般の人が迷惑しています。
警察署が目の前ですから相談に行くと、どこそこに止めなさい、駐車違反にはしないから、とか言ってくれますが。
通勤利用者はスティッカーを村から購入し、窓に貼ります。
居住者と非居住者に分け、非居住者は5割増しの料金となります。
募集は居住者優先となっていますが、車の数は増える一方。 順番待ちで一年以上も待たなければならない駅もあるとか。
殆どの駅で非居住者の車の方が多く、場所が見つからずに駅前の商店街の辺りに終日駐車して、ひんしゅくを買っています。 日本の駅前自転車問題と同じ。
タレイタウンの場合、急行電車も止り、その分集中して尚更大変のようです。

 グランド・セントラル・ターミナル迄の運賃はラッシュ・アワーの往復ですと15ドル。それ以外の往復は10ドル。 1ヶ月定期は163ドルとなります (2013年1月現在で、ラッシュ・アワー時、駅購入で24ドル、ラッシュ・アワー外、18ドル、1ヶ月定期266ドル、尚1週間定期券85ドル、もあります。往復切符の車上購入は出来ません)。 非ラッシュ・アワーにもっと一般客に利用して貰いたい、通勤時間を外して乗って欲しいという趣旨からですが、朝に用事がある一般客には却って罰金的とも言える料金体系となっています。

 元々は車通勤者に利用して貰い、渋滞や公害を減らそうとするもの。 車離れさせるには、定時運行と安い運賃と快適性。
私の場合、車通勤ですと月極め駐車場が240ドル、それにチップが月に30ドル、高速の使用料が往復で1ドル(2013年現在 片道4ドルですが、E-ZPass((ETCカードと機器が一体になったようなものです。リア・ヴュー・ミラーの裏に留められる大きさ))使用のみで、現金は使えない。 月極駐車場は5割高になっていたとしても驚きません)。
計約300ドル+ガソリン代40ドル程度。それに保険料と維持費ですから、一人通勤ですと5割高。 最近又電車通勤になりました。

 跨線橋を渡って向こうのホームに行きます。朝の通勤時の利用者数は私が引っ越して来た頃と比べると3倍か4倍です。
当時は殆ど皆顔見知り。広告代理店関係の人が多く、電車を待っている間、世間話なんぞに花を咲かしていましたが、今は知らない顔ばかり。 知らない同士で話し合い、というのは最近は無くなってきたようです。
腹が立つのは運転士、毎日同じ列車の運転なのに、絶対に同じ場所に止まらない。
地下鉄のホームに付いている先頭車停車位置目標は、通勤電車の場合ありません。 しかし、1メーターやそこらならまだしも、1両の1/3位ずれる等はざら。
こうも毎日ずれていると、わざと楽しんでやっているのではないかと、入ってくる運転士を睨み付けてしまいます。
知らない同士が増えたせいか、ここでもモラルは悪く、遅く来て割り込むのが当たり前、という輩が多いですね。特に女性に多い。 席は一応あり、女性を立たせる等という事は考え難いのですが。

 車内は通路を挟んで二人と三人掛けのシートが並んでおり、通勤時には三人掛けの真中に座るのが嫌で立つ人もいますが、原則的には全員座れますし、規約的に保証はされています。
         
       左:1975年 旧車両      右:2012年 新製車輌 左は車椅子用トイレ 後ろが3列席

小さな駅では駅舎が無く、大きな駅でも夜になると切符売りはいなくなり、切符は乗車後に車掌や乗客係から買います(乗車後に購入する場合は罰金的な割増料金となるので、今では地下鉄を含めた自動券売機がホームに設置されています)。
乗務員は一列車に二,三人から、時間帯と列車によっては七,八人乗っており、各駅発車毎に車内を回り、切符、定期券の確認をします。
乗降客の少ない駅を出る時には、殆どの車両の運転台窓から乗客係りの顔が突き出され、前方確認をしている様はユーモラスです。
切符はその場で回収され、座席の前に小さな紙が挟まれます。 この紙のパンチの位置で何処で降りるのかが判り、座席を変える時は、このカードを持って移動。 最終駅の前で全部回収される為、駅には集札口が無く、改札口も無い。 
ラッシュ時上り列車では、終点迄行く人が殆どで、検札に来ても、カードを置いていく事はまずありません。
 私の家内は昔、一年程タレイタウンから、ホームがカーヴした小さな駅に週一回通っていました。
帰りは夕方のラッシュ時。 降車客が多く、見通しも悪いので見えなかったのか、切符を買う機会もないまま駅に到着、今日も得をした、と帰って来た事が何回かありました。 小さな息子を連れてですから目にはつく筈なのですが。 乗客が多すぎて乗務員の全車両巡回が出来ない事もあるのです。 
逆に、昔は帰りの電車で遅くなると、同じような顔ぶれ、車掌も心得たもので、カードを確認しながら、寝込んでしまった客を起こしてくれたものです。
 ホームを道路から閉鎖し、自動改札口を設け、マグネティック・カードの利用で乗務員の数を減らす案も出てはいますが、どうなる事でしょう。 勿論通勤電車は赤字で、公的資金が投入されています。
この20年間で通勤風景も全く変わりました、20年前(1970年代後半)は30代半ばからの客が多かったようですが、最近は住宅事情を反映して20代、30代の通勤客、特に女性が増えました。 昔は若い女性客だとかなり目立ったのですが。

 電車も変わりました。 前にも書いたように当時は殆どが旧式車。 その頃はまだ籐で編んだ座席と背もたれの車両があり、外側ドアも手動。 ドア・ラッチが壊れて閉まらない車輌もあり、冬は惨めでした。
エア・コンはついていたのですが、働かない事がしばしば、開かない窓ですから夏は蒸し風呂。 車掌も心得たもので、デッキとの間の扉にくさびを叩き込み、外側ドアも開放にします。
照明も切れていたりして(車端の小さな非常用電球のみで中央は真っ暗、ゆったりと座れましたが)、評判の良いものではありませんでした。 
シートは背もたれを前後に動かす事により進行方向に向けられますが、通勤電車ですと何時も同じ時間という事で、なんとなくグループができます。
いつ頃からかポーカーを始めました。 私が始めてその列車に乗った時から見かけているので、かなり昔からでしょう。
一番端の背もたれを倒し、四,五人膝合わせに座り、壁からポスターを外してテーブル代わり(かなりの厚紙)。
チップは紙マッチ1本5セントとかのようで、金が目的ではなく、あくまでも時間潰し。少々騒がしいのですが、他愛ないものでした。
一つのグループがやっていると真似をしたくなるもの。7時58分の電車では、3組位に増えたようです。
私はその後、車通勤になったのですが、或る日、新聞とTVで彼らのニュースを見る事になりました。
ギャンブルをやっている、という事で全員逮捕されてしまったのです。
朝のラッシュ時に手錠をかけられグランド・セントラル・ターミナルの中を連行されたのですから、連中の怒る事。
殆どが40代で肩書きの付いている連中。 名誉毀損と不当逮捕だと裁判所に提訴。 鉄道側としては、少々目に余ってきたので見せしめの為に連行して始末書、位のつもりだったようですが、手錠がいけませんでした。 鉄道側が公に謝る事で一件落着。
はっきりとは説明していませんが、ポーカーをしている事自体より、ポスターや点数表を置去りにした事の方が問題だったようです。 最初のグループは外したポスターを壁に嵌め戻していましたが、他のグループはそのまま。 次の日には他のポスターを剥がす。 広告代を取っているのですから何処からかクレームでもついたのでしょうか。

 その7時58分の電車には、一台余計な車両が付いていました。サロン・カーと呼ばれていた気がします。
通路のドアはこの車輌だけ擦りガラスで、中は見えないのですが,乗務員が通る時に覗く事ができました。
別に内装が豪華だというのでなく、普通車両の座席を取っ払い、皮を貼った安楽椅子と小さなテーブルが幾つか置いてあるだけ。中は葉巻の煙でモウモウ。
通路の入り口に「何とかリヴァー・アソシエーション・プライヴェート・カー」という札が下がっていました。
重役、社長連中が金を出し合って鉄道から借りている貸切車両。 どのような金儲けの話をしていたのか。 この車輌の帰りは5時一寸過ぎでした。
 コネチカット州との通勤電車にも長距離列車には一台余計な車が付いています。
こちらはステンレスの新造車両で名前もバー・カー。 乗降扉間の窓が潰されているので直ぐ判ります。
こちらは誰でも利用でき、一隅にカウンター。 ビールとかハード・リカーをピーナツ等のつまみと一緒に買うことができます。
座席は殆ど無く、その代わり手すりのポールがあちこちにあり、それに付いている小さなテーブルに飲み物を載せ、もたれかかって飲むというのが常連。 勿論、乗降口の車端側にある座席に座れますし、他の車内にも持ち込めます。
この車両、結構見かけていたのですが、通勤客が増え、のんびり酒でもないだろう、との事か、数が減っているようです。
もっともグランド・セントラル・ターミナルでは、長距離通勤列車の出るホームに手押し車が出ており、飲みたい人は、プラスティック・カップに氷と飲み物を入れて貰っています。 ビールも売っているようです。 (2013年 両方共、2012年には見かけていません

 発車してすぐ、右側にヨット・ハーバーが二つ並んでいるのが目に入ってきます。 両方で50漕以上、
もしかしたら100漕近いボートが係留できる筈。 冬には陸に上げられたボートに白いキャンバスが被せられ、様々な形のさなぎが並んでいるようにも見え、マストのてっぺんの金具が風にあおられ、ぶつかりながら出すカーン・コーンという音、冬の風物詩とも言えるでしょう。ボートの半分はクルーザーでしょうか。  規模は兎も角、この流域の殆どの街にボートの係留所があります。

       
    2005年11月 跨線橋から            2006年 

 湖のように幅のある河を眺めながら次の駅はアーヴィントン。 タレイタウンとアーヴィントンの駅間は長く、殆どが水際走行。 対岸はなだらかな丘陵で、のんびりとした景色。
アーヴィントンは小さな村ですが、学校の評判が良く、日本人が多く住んでいます。 一時60世帯程住んでいたとか。
地下道がある古い駅を出ると、河(右)側には古い工場の建物が並び、左側には立派な石造りの建築物が見えます。
両方とも温室関係資材製造のバーンハムという会社の本社だったのですが、倉庫一つに名前を残すだけで何処か他の州に移転したようです。目立った企業はこの村にはもうありません。
この倉庫群の先には1998年の始め頃迄材木問屋の倉庫があり、木材を積んだ貨車が何時も止っていましたが、二,三年前に一棟が焼け落ちてしまい、それが原因なのか、次の夏に気がつくと、全ての建物が土台だけを残してきれいに取り壊されていました。
この材木倉庫は映画「北々西に進路を取れ」で、かなりはっきりと映っており、火事の後でも原形をかなり保っていたのですが。
         
        2012年6月 元バーンハム社の本社       2010年5月 材木倉庫跡 現在公園

 次の駅、アーズレー・オン・ハドソンの上りプラットフォームは河岸の上。 すぐ下に水が見えます。
線路の左側には、跨線橋とつながった連絡歩道橋が丘の上の古い大きなアパートに続いており、駅前の一角はその庭の一部に見えてしまいます。
河に突き出したようなプラットフォームと共に少々変わった駅です。
 続いてドブス・フェリー、ヘイスティング・オン・ハドソン、グレイストーン、グレンウッド、ヨンカースと続きます。

 ドブス・フェリーの辺りから、対岸が近寄り出すと同時に、丘陵の高さは増し、川岸は切り立った崖となっていきます。
ドブス・フェリーはその名の通り昔々、渡し舟が発着していました。
以前は国連関係の日本人通勤者が相当数乗降していました。
この駅の駐車場も私が知っている頃と比べると3倍位に拡張されています。
駅の外れにはこの何年か前に出来たレストラン。 村有地の筈ですが、公園のような景色になった一等地を、一企業に貸してしまうというのはピンときません。

             
          2012年6月 ドブス・フェリー                                 2012年6月 ヘイスティング・オン・ハドソン
 ヘイスティング・オン・ハドソン駅に入る辺りから、河側には懐かしいノコギリの刃形屋根をした古い工場の建物が続きます。
私が引っ越した頃はまだ営業していたようですが、これはかってのアナコンダ社の工場の跡。 アナコンダは当時世界一、二を誇る銅の会社、国内だけでなく、海外にも銅山を保有しています。
60年代迄のアメリカの銅の自給率は100%ではなかったでしょうか。 その貢献社の一つ。
この工場では既に精練された銅を製品化していただけのようですが、大きな研究所の建物もあり、当時まだ日本感覚が抜けていない私には、何故これだけの設備と規模の工場が閉鎖をするのかピンときませんでした。
(2013年現在 全ての建物が撤去されたようです

 対岸は直立する崖、高さ50m以上もあるでしょうか。
崩れた後も見え、真夏でも緑にならない個所があります。この崖はリンカーン・トンネルの辺り迄続いているのです。 進行方向左の駅舎側が街の方になるのですが、店一軒も見えません。
ヘイスティングとグレンウッド駅間の対岸に二つの鉄塔の頭だけが見えて来ます。
北側で奥の方にあるのはマイクロ・ウエーブ用、南側の手前で良く見えるのが、世界で最初にFM放送を開始した時に使われたアンテナと思われますが、私自身未確認なので、はっきりとは断定できません。
FM放送はアームストロング氏によって開発され、1930年代に試験放送が始まりました。
音楽ファン達の期待を担ったのですが、当時AMでのステレオ放送の可能性を模索していた既存局は、ラジオの最盛期にあり、これを無視。
逆にマーケットを脅かされるとしてレコード会社等と計らい、FM放送は葬られてしまいました。
発明王アームストロング氏、失意の中、大した活躍もせず50年代に亡くなっています。
FMが本格的な放送に戻れるのには30年かかりました。 これも資本主義。 マーケット独占状態の崩壊には時代の流れが必要です。

グレンウッドのホームの裏側には、太い二本の煙突が屋根から突き出た、この付近では巨大なレンガの建物があります。
坂になった引込み線があり、貨車を押し上げて横付けさせ、二階の位置から石炭を降ろすようになっているので、一目で発電所と分かります(2013年現在 引込み線は外されました)。
これはこの鉄道の持ち主だったニュー・ヨーク・セントラル・レールロードがこの電化区間の電力供給用に作ったものですが、効率が悪い事から、相当昔に使用廃止になっっていますが、他に使い道もなくそのまま。
 ここからヨンカースの先にかけ、崖の縁をよく見ると、木の間を米粒のように小さく自動車が走っているのが見えます。 これはパリセード・パークウエイ。
途中に何ヶ所かの見晴台があり、駐車してヨンカースからブロンクスの景色が楽しめます。 夜には遠くホワイトストーンやグレイト・ネックの釣り橋もイルミネーションで浮き上がってきます。
この施設の一つはロックフェラーが寄付したものでロックフェラー・ルック・アウトと名付けられています。 こちらから見る崖は冬になると、葉を落した木と崖の薄茶のモノトーン。晴れた日の早朝は日の出で数十秒間、薄赤く染まります。

 グレンウッドとヨンカースの間にはもう一つの大手銅会社フェルプス・ドッジの工場の建物群が残っています。
この工場も私が最初に見た時はまだ操業中で、銅線を巻き付ける 2m以上もの大きなリールが幾つも並んでいました。
最後の倉庫状の建物と次のヨンカース駅の間にはちょっとした操車場の跡地があります。 この近辺の工場の貨車の入れ替えや留置に使っていたもので、最盛期の河沿いの工場の操業レベルが想像できます。(2013年現在 バスの駐車場

 グレイストーン辺りからは、ヨンカース市となります。
ウエストチェスター郡にある数少ない市の一つですが、ハロー・ドーリーの舞台であった事とアメリカの大きな都市で初めて破産宣告を出した事で有名になった所でもあります。
その為、この市で買い物をすると、売上税率はニュー・ヨーク州の中で、ニュー・ヨーク市と並んで最も高い8.25%となります(倒産後暫くは特別率が足され、10%だったと記憶しています)。   (2013年 現在は交通税が含まれるニュー・ヨーク市が最高
駅の手前右側には、アメリカ東部の工場としては比較的近代的な建物がならんでいます。これは旧ポリクローム、大日本印刷に買われた会社。 印刷インキなどでは知られた存在です。

駅の左側すぐ横には、オーティス・エレベーターの比較的新しい工場がありました。
これも、コスト高と狭い敷地では高速エレベーター開発用タワーも設置できない、と暫く前にニュー・ヨーク州から出ていってしまい、空き家になっていました。
州政府等が間に入り、税金軽減とか企業融資をした結果、かなりの数の中小企業やアーティストが仕切られたビルの中を借りたようです。 床は頑丈で天井が高く、アーティストには最高でしょう。
川崎車両が現地法人を設立し、建物の相当な部分で地下鉄車両等の組み立てをしています。 矢張りコストが嵩み、10年近く前に、州や市で期待をかけていた台湾地下鉄新製車輌製作の競札にも負け、その後とんと新車が停まっているのを見た事がありませんでした。
しかし1998年の後半からロング・アイランド・レールロード等の二階建通勤車輌の組み立てにかかっており、今暫くは忙しそうです。
当初取り外されていた本線との分岐器も復元され、トレーラー・トラックに乗せて完成車を運搬する事も無くなったようですが、組み立て前の車体は相変わらず道路上をトレーラーとして牽引されて来ているよ模様。
2013年現在 コスト削減の為にネブラスカ州に大工場を建設しましたが、今でもニュー・ヨーク州、市用の車輌はヨンカースで組立られている様子)

駅の周囲は再開発でかなり奇麗になりましたが、まだまだ問題だらけ。
ヨンカース市でも郊外になる東側はかなり高価な家が立ち並んでおり、まるで同じ街だとは思えません。
アメリカに詳しい人には通学問題でもめた市である事も御存知でしょう。 大都市への黒人、移民人口の増加で白人が郊外へ脱出した事は前にも書きましたが、ヨンカース市は昔からニュー・ヨーク市のベッド・タウン。
ブロード・ウエイからブロンクス区を北に出るとヨンカースなのです。 白人達は、かなり昔から黒人の少ない東側に移転して行き、必然的に白人の多い学区と黒人の多い学区に別れてしまいました。
60年代からの学区人種融合策にも、金がかかり過ぎ、高速道路が縦断している為に自然と地域的に分断されているのだ、とノラリクラリやっていましたが、1988年に裁判所から、低所得者用の公有アパートの建設に対し、人種融合策を採らない限り、一日につき100万ドル迄の罰金を課す、と言う命令が出てしまいました。 市の方で折れて決着はついたようです。

駅の敷地の外れには、屋根が付いた小さな桟橋があります。 取り壊しは免れていたものの、ボロボロの状態でしたが、1980年代に整備され直され、上流に向かう観光船が時々利用しているとの事。
次のルドローとの間には沿線で唯一残っている大きな工場があります。
ジャック・フロストの砂糖工場。 工場の建物の陰でよくは見えませんが、時々河岸に貨物船が横付けし、積み下ろしをしています。
建物手前側の引込線には、何時も穀物用のホッパー車が数両おり、稼動している工場を見るとホッとします。

 ルドローを出ると河岸との間に挟まれた二つの浄水場の前を走ります。
ニュー・ヨーク側の旧い方の槽には蓋が付けられ、太いパイプが縦横に走っており、発生するガスの収集でも始めたのでしょうか。 以前はパイプから排出されて燃されていました。

 次はリヴァデール。 もうニュー・ヨーク市ブロンクス区です。
リヴァデール・デイ・ スクールがこの左奥にあります。 ジョンとロバートのケネディ兄弟も学んでいた学校。 
この辺はニュー・ヨーク市内では高級住宅地で、60年代中頃から70年代には、比較的新しく大きなアパートに日本人の家族も多く住んでいました。
ブロンクスと言うと評判良くないようですが、緑も多く、同じ区だとは思われない所も多いのです。
 
 リヴァデールを出ると、右手前方に巨大なジョージ・ワシントン・ブリッジがはっきりと見えて来ます。 平野部なのに断崖と断崖の間に架けたような橋。 山の谷間は別として、日本にはこのような橋の架け方はないでしょう。
1931年完成。 同年にエンパイア・ステート・ビルも完成・・・日本では満州事変を起こしていました。 重砲、兵站輸送は未だ馬を使っていた日本です。
当初は 1層のみで 1962年に下層が追加され、上下で 14車線。 全長 1450m。
ゴールデン・ゲイト・ブリッジは鉄板張りで女性的にも見えますが、この橋は鉄骨剥き出し、男性的で力強く見えます)。

 通勤列車は減速を始めたかと思うと1線を残し、分岐器を渡り左の急カーブに3線が入って行きます。 ここはハドソン河からハーレム・リヴァーが枝分かれする所。ここから列車はハーレム・リヴァーの左岸を走る事になります。
直進する線路は、ハーレム・リヴァー川口の水面すれすれに架けられた旋回橋を渡り、アムトラック列車をペン・ステーションに向かわせます。
最近はアムトラックの旅客列車が頻繁に走っており、河を塞いだ状態が多いのですが、昔は殆ど開きっ放し。
その又昔は貨物列車がマンハッタンに直接入り、ミッド・タウンからダウン・タウン迄建物を縫う様な急曲線のある高架橋を走り抜け、何軒かのビルの二階に組み込まれた引込線から荷の積み下ろしをやっていたようです。
早朝、白い蒸気を吐きながら走る蒸気機関車牽引のミルク・トレインは有名だったようです(残されていたダウンタウンでの一部は遊歩道になっています)
  
 2006年11月 珍しく水路が閉ざされていた 列車の接近が近い?     2012年6月

アムトラックがアルバニー、カナダ、シカゴ方面からの列車をグランド・セントラル・ターミナルからペン・ステーション発着に変更する以前、この橋が火事になり(燃えたのは枕木と橋脚を船舶の衝突から守る為の防護杭ですが)強度が下がってしまい、鉄橋部をバルジに載せて修理工場との間を往復。
戻って来た時には、綺麗にペンキが塗られていましたが、単線にされてしまいました。
この橋、私が知っているだけでも二回船にぶつけられており、一回は列車の運行に障害が出る程。

 暫く前迄は、橋に入る手前から駅に向かって線路が敷設されてあり、三角形を作って三方向どちらにでも、行き来が出来るようになっていました。 その中央に、今でもレンガ造りの信号所があり、夜にはコウコウと電気が灯っていましたが、今は生い茂る木立の間から見え隠れするだけ(現在ありません)。

 曲り切らない所からスパイトン・ダイヴィル駅のプラットホーム。 このホームからの景色は少々奇妙です。
 駅の左(北、ブロンクス)側には駐車場をかねた道路と少々の雑木林がありその先は丘。 その上にはギリギリ迄アパートが立ち並んでいます。 ビルによっては鉄骨やコンクリートの足場を張り出して、建物を突き出しており、いくら岩盤だといっても日本人には少々怖い。 夜はホームと駐車場の照明以外見上げなければ真っ暗。 
前方(東)はハーレム・リヴァーと平地、後(西)を見れば幅広いハドソン河とニュー・ジャージー州側の断崖、旋回橋を除けば人の手が入っていない景色です。
右(南)はマンハッタンですが、マンハッタンが張り出してきている部分は、両岸共断崖になっており、それを強調するように鉄骨のアーチ橋が空高く跨いでいます。
これはヘンリー・ハドソン・パークウエイの有料橋(1936年完成)。 上下二層になっており、上が北行き、下が南行きで、マンハッタン側の狭い所に、矢張り二層で料金収容所があります(現在は低速通過)。
マンハッタンとを結ぶ有料橋やトンネルは全て一方向のみの料金徴収なのですが、ここは例外。 迂回路が近所にあるからかもしれません。
この橋は 1930年代に設計されたもので、現在のデザインから見れば無駄が多いと思いますが、この青く塗られた橋、下の方から見上げる姿は中々綺麗です。 高さは 50mもあるでしょうか。

この辺りの水深もかなりあるようで、自然の流れと潮の満ち干の為に水面には、複雑な渦や波紋が生じます。 この水際から崖を含めたマンハッタン側、奥の方までがフォート・トライオン・パーク。
昔に一度散策した事もあり、自然の味わえる公園という記憶が残っていますが、ドラッグ問題等で利用者が減り、現在はどうなのでしょうか。 
名前の通り、対岸ニュー・ジャージー州のフォート・リーと同じく独立戦争前後には砦があった筈です。
この頂上に当る所がクロイスター。 この名前最初は固有名詞だと思っていたのですが、辞書には壁で囲まれた修道院を主に指すとなっています。 実際に修道院がある訳ではなく、そのように建築されたもの。
内部は美術館、メトロポリタン美術館の分館となっており、ここもロックフェラーの世話になっています。
この中世の城のような建物の屋上はハドソン河を見下ろすに絶好の場所。 但し、私は緑の多い夏ではなく、凍った水が流氷ように流れていく冬の終りの方が好きです。
崖の外れ、東側は入り江になっており、水鳥が羽を休ませています。 入り江の向かって左側には、コロンビア大学のボート部のボート置き場と、その奥にはスタンド付きのフット・ボール・フィールドがあります。
ここから先、夏の朝等には学生が掛け声をかけながら、水すましのようにハーレム・リヴァーを下って行くのが見られます。
   
 2012年6月 二線区間          2012年6月                     左 コロンビア大学の施設  右 公園

 スパイトンダイヴィル迄の左岸は駅の近辺を除いて、日本風に言えば雑木林の断続、自然まかせです。
線路はスパイトンダイヴィルに入る手前で複々線から三線になり、ホームの外れからは二線。 この駅と次の駅マーブル・ヒルの間、河岸まで岩盤が突き出している個所があり、川岸を埋める訳にもいかず、この岩盤を砕き、その間に線路を無理矢理通した為です。
急なカーヴに車輪が悲鳴を上げながら通過し、線路が三線に戻るとマーブル・ヒル、大理石の丘、と名前だけは立派。
ホームの先、上空には橋桁上下移動式の橋が架かっています。 二段で上が地下鉄、下が道路。
この道路は何とブロードウエイ。 例のタレイタウンの中心部を突き抜けている道路と同じ。 この橋桁、大きな船が通る時には、両側の橋脚と一体となっている背の高い構造物に組み込まれたモーターとロープで吊り上げられるのです。
見た所 15m位は上がりそうですが、現実的にはプレジャー・ボート、遊覧船とかバルジ位しか航行していませんので、上がった状態を見た事がありません。
以前、何かの時にマンハッタン周囲の可動橋を全て動かした日がありました。
帆船を集めた日に集まったボート等の為なのか、単なる全ての橋のチェックだったのか記憶は定かでありませんが、丁度週末で、見に行こうかと思った位です。
水と橋の都シカゴもそうですが、殆どの橋は可動橋か、水面からの十分な高度をとってあります。
バルジでの水運が盛んだったという事もありますが、有事の際に備えて整備し続けていたというのが本当でしょう(軍艦を通す為もあります)。
東京で唯一残っていた可動橋勝鬨橋が消えてから久しくなりますね。 緊急時に大量の資材を運ぶには矢張り船、有事の際に、という考え方が現在でも根強く残っています。

   
左:タワー下部にバランス用の錘が見える 中央:制御室。地下鉄車輌の頭が見える。下り長距離通勤列車が進入中

 列車は川沿いに右(南)に曲っていきますが、左手に古いアパート群が見え出し、高速道路が近寄ってきます。 ニュー・ヨーク・スルーウエーの続きです。
その奥、丘の上に見える大きな建物は、前にも書いた VA ホスピタル、退役軍人用の病院。 右手、川の反対側には大規模な地下鉄の留置線と修理工場。
この辺りズーッと先まで、水運交通が盛んな頃には工場が密集していたのでしょう。そこここにコンクリートのビルの基礎が残っています。
次に見える橋はフォーダム・ロード・ブリッジ。 これは、川の中程にある橋脚部を中心にして回る旋回橋です。
この橋の取り付け部を抜けた所がユニヴァーシティ・ハイツの駅でホームの長さは四両分しかありません(現在は延長された)。
この先空き地が暫く続きますが、私が通勤を始めた頃には壊れかけの平屋の建物が並び、その一棟に大学のロケット研究所というサインが付いていたのを憶えています。
新しいスポーツ・グラウンドが見えてくると、対岸の平地が段々と高く丘状になり、突然二棟の新しい高層アパートが目の前に現れます。
ビルのコンクリート構造物が、これ又短い(延長された)モリス・ハイツ駅のホームを覆い、上は多分駅とビルの入り口に当る広場にでもなっているのでしょう。
中庭のような位置には大きなプール。 ビルの一階が駐車場。
しかし、どちらかというと、低、中所得者の為のアパート。規模、設備、立地条件からいえば、ニュー・ヨーク市でも珍しい存在でしょう。

 この辺りから橋が増えます。
列車は昔河川敷であったような左(西)岸を走っていますが、右岸(マンハッタン側)は川から直ぐに丘、川岸に張り付くようにハーレム・リヴァー・ドライヴ。 一部は川に張り出し、橋構造。
こちら側も左奥は丘、の状態ですので、二つの丘を結ぶ橋の高さと長さは相当なもの。
最初の橋は鉄骨のアーチの二連橋。 デザインからいくと1800年代の後半に出来たものでしょうか、両岸の取り付け部は石を積み上げた連続アーチ橋。 調和が素晴らしいですね。
すぐ続いてモダンでシンプルな高速道路のアーチ橋。 こちら側の取り付け部は例の円柱コンクリートの上に橋桁が乗っている日本でもお馴染みのもの。
この橋はジョージ・ワシントン・ブリッジ経由でのアメリカ南部、中西部方面と、ロング・アイランド方面、コネティカット、マサチューセッツ州等の北部の州との主要交差路となっており、朝夕は大変な渋滞。
線路の上を一回転して、高く川を越えて行きますが事故でもあるとトレーラー・トラックが数珠繋ぎとなり、まるで駐車場。
その直ぐ先の対岸では、突然20連程のコンクリート連続アーチ・ブリッジが丘の上から降りて来、次の橋の下をくぐり、ハーレム・リヴァー・ドライヴと合流します。
これがジョージ・ワシントン・ブリッジから出て来た道路の一本。 
 この付近の風景、現代的な箱庭というか、鉄道模型のレイアウト的な雰囲気がします。
今くぐったのは古く綺麗な橋、川を跨いでいる部分は鉄骨アーチですが、地上部は 40〜50mも石を積み上げた俗にいうヴァイアダクト、 古代ローマでは水道橋です。 こちら側は10連も続いているでしょうか。 この橋は一見すると、巾が大変に狭く、人道橋に見えますが、橋の取り付け口には鉄柵、マンハッタン側の丘の上には、同じく石で積み上げられた尖塔。この橋も水道橋なのです。
これを過ぎると両側の丘は段々と低くなり、対岸のハーレム・リヴァー・パークウエイがはっきりと見えて来ます。 ジョージ・ワシントン・ブリッジ方面からの車がマンハッタンの東側に入る時や、ケネディ、ラ・ガーディア空港方面に行く時に良く使われる高速です。

 線路と川の間にかなりの空き地が現れます。1960年代迄、客車の留置場として使われていたようで、私が通勤を始めた頃にはまだ列車洗車設備の残骸が両側に残っていました。
川に近い側は多分貨車の操車場だった、というのはこの先に、今は見る影もない青果市場があるのです。 この空き地、80年代には数本の線路以外は取り外され、かなりの地面を舗装して画期的な実験が行われました。
ロード・レーラー・システムと名付けられたこの試み、実は60年代にも試用されましたが、技術的な問題も多く、忘れ去られていたのです。
簡単に言えば、トレーラー・トラックのトレーラー部に、ゴム・タイヤ・セットと共に、上下動可能な鉄道車輪を取付け、連結器で列車を編成し都会間を結ぼうというアイデアです。
道路を走る時でも、列車として走らせる為の強度の枠が必要であり、一対の鉄車輪重量分を含め、荷の積載量が減ると言う文句が出たようです。
トレーラーを貨車に乗り降りさせるピギー・バック方式と比べ、手間と時間が省け、連結器は、簡単な棒タイプのものが取り付けられているので、連器面の遊びが無く、発進やブレーキ時のショックが減り、荷崩れからの損失を防げるという長所があります。
短所としては強度上、長い列車を組成出来ない。 しかし軽量列車で、重心もトレーラーを貨車に乗せて走るより低く、車輌間隔も狭いので空気抵抗も減り、高速を出し易いという大きな利点があります。
この列車、夕方迄に集まったトレーラーを繋げ、通勤ラッシュの直後にアルバニーに向かって出発していました。
通勤電車並みに快走していくロード・レーラーを何回か見ましたが、車軸は一台に付き、車端に一本。 車輪が無い側は前の車に負ぶさった形、実際には連結棒に荷重がかかっているのですが。
レールの継ぎ目は普通ですと、カタカターン、カタカターンと二回づつ、次の車輌の音と合わせて4回聞こえてくるのですが、間を置いてカタ、そしてカタです。カタと音がする度に一台のトレーラーが継ぎ目を通り過ぎていくのです(アメリカではレールの継ぎ目は左右同位置ではなく互い違いですから、厳密には少々異なったリズムですが)。
車輌間隔も前に書いたように狭く、電車と併走している時に輌数を数えても、追い抜き後、駅で数えると違っていた、という事が間々ありました。 もっともスピードが早いので、ホームの上で数えていた方が間違いだったという可能性もありますが。
 当初荷主の抵抗はかなりあったようですが、殆どスケジュール通り走り、列車の長さも段々長くなって、成功したかに見えたのですが、突然中止。
大きな理由はニュー・ヨークからの荷はあっても、帰りが空車というケースが多かったという事と、ニュー・ヨーク側は通勤電車と同じ線路を使うので時間帯がうまく取れないという事が上げられます。
もう少し走行距離が長ければ、夕方荷を集め、次の日の早朝に向こうに着くというスケジュールが取れたのでしょうけれども。 その後、 他の鉄道会社でも試用され、現在では全米で、定期貨物列車として何本か走っています。(2013年現在では1社だけになったようです
この空き地、今では取替え用コンクリート枕木の集積所として使われています(2013年 現在はラッシュ・アワー前後の列車留置と検査の為の設備が建設され、従業員用の短いプラットホームも設置されています)。
もう一つ珍しいのは、ここから新線が建設されたという事です。
夜中にハドソン・ラインを貨物が一、二本走っていますが、複雑な動きをしない限り、この先は行き止まり、東西南方向の連絡はありません。
この何本かの貨物列車と、川崎車輌での完成車の発送、枕木の集積の為に、この線は作られたようです。
私有地を買収するのが面倒なのか、河岸にコンクリートの杭を打ち込み、コンクリートの連続橋桁となっています。
このまま何キロか川の上を走り、ブロンクスの東端で在来線とつながっているようです。
完成した時も広報はされなかったようで、気が付いている人も多くないようです。

 この空き地の先、線路の左側にはヤンキー・スタジアムが見えて来ます。
線路の上には駐車場とスタジアムを結ぶガラスで囲った橋がかかっており、その横には、ヤンキー・スタジアムの象徴、ルイヴィル・スラッガーのバットを模した煙突が建っています。
空き地を利用して、仮設でもよいから、駅を作ってくれという声が前から上がっているのですが、スタジアム移転の話しが持ち上がる度にお預けとなっています。
面白い事には、スタジアムの反対側に地下鉄が通っていますが、高架になっておりゲームを覗く事ができます。 地上線のこちらは川岸の為、スタジアムを見上げる形になります。
右側の空き地は昔、貨物列車の引込線とトラックの為にありました。 端に大きな建物があり、ここが青果市場だったのです。 賑やかなのはゲームがある時だけ。(2013年 ヤンキー・スタジアム自体は奥に再建され、電車からはもう見えませんが、新しい駅が出来便利になっています。青果市場の建物は取り壊されました)。

ここで列車は急激にスピードを落とし、左側に現れてくるニュー・ヘイヴン、ハーレム両線と合流します。
この付近、小工場が建ち並んでいる所で、かなり寂れていましたが、大きな総合病院が建ち、人の出入りが多くなったせいか、少々雰囲気が変って来ました。
目に付くのは大きな車のオークション・サイン。 売られるのは差し押さえられた車等ですが、指定日に車をチェックする事ができ、整備工を連れて行くのも自由。
しかし都会でのパブリック・オークションの殆どは室内ですので、エンジンはかけられません。 決済は現金か証明付きの小切手。 頭金を現金で払えば、半日支払いを待つ所もあります。
保証は勿論ありませんから、かなり車に詳しくないと、賭けをするのと同じ。 良い車を競り落とせば見っけ物と言えるでしょう。 最近は一般の人にも知られるようになり、かなりの人数が集まるようです。 
TVでも時々、高級車やヨットの写真を出し、これらは麻薬犯罪者の所有していたもので、政府が押収しパブリック・オークションにかける事になっていると宣伝をしていますが、そうそう麻薬犯罪者も毎週逮捕、起訴されている訳でもあるまいに、と考えてしまいます。 
これとは逆に非公開オークションのレポートを先日TVで見ました。 見せたのは全米最大のカー・オークション。
州は忘れましたが年に一回行われ、場所は後楽園の何倍等というものではないでしょう。 空き地一帯に車が並び、これ又アッセンブリー・ラインのような巨大で長い建物に、車が三列程に並んで一方から入り、他方から出て行きます。 この間に値段が決まるのです。目の前に見えているのは何分もないでしょう。
これはディーラーとか、車販売関係者のみのオークション。 一般は絶対に入れません。 素人が入るとトラブルが起きるという理由からです。 何十台、何百台まとめ買いしてリスクを分散するプロと、一台毎にああのこうの言いたい素人では、所詮お話になりません。
地方の中小ディーラーは、資金も人手も無く、数多く集まる仲買人から買ったり、委託注文したりして、自分の店に合った中古車を仕入れています。 下取り車を買い込むと高くなるので、安めの車とか、中古専門ディーラーは、こういう所で仕入れているのです。

地面が低くなり、線路は必然的に高架と代わり、直ぐにハーレム・リヴァーの鉄橋を渡ります。 これも吊り上げ式の橋で、二本の橋が平行にぴったりと並び、線路二本づつ、複々線となっています。
   
2012年6月 ハーレム川を渡る 2012年6月 連絡用の線路が下に見える

橋の次いでにマンハッタンにかかる橋を全て挙げますと、前記の橋7本にフィフス・アヴェニュー・ブリッジとサード・アヴェニュー・ブリッジ、これは右手(東)に見えます。
左手にはセカンド・アヴェニューとファースト・アヴェニュー・ブリッジ。 これらは全て旋回式道路橋です。
その次はトライボロー・ブリッジ。 これは上から見るとT字型をしており、Tの基部がマンハッタンで、この部分は吊り上げ式。 Tの横棒はブロンクスとクイーンズ区にまたがり、三区橋、トライボロー・ブリッジの由来で、有料です。 1930年代の橋としては、かなり大規模なものです。
次にマンハッタンとクイーンズを結ぶ、可愛い吊り橋、これは歩行者専用。 次からはすべて大規模な吊り橋となります。
クイーンズ・ボロ・ブリッジ、この橋も自動車道が上下二連。
        
     クイーンズ・ボロ・ブリッジ 2009年5月        1974年 
   
        2009年5月 ロープウエイ                   ロープウエイから
この端の北側に寄り添うようにしてロープ・ウエイが運行しています。 もっともクイーンズ区本土を結んでいるのではなく、手前の細長いルーズヴェルト・アイランドの住民の為に建設されたもの。 
この島、私が来た頃は、無人島。 隔離病院があったのですが、相当前に廃止され、残骸状態。 
ここを整地してアパート群を建てたのです。 マンハッタン初のメイン・ストリートができました。 規模は 2000軒位と思います。
地下鉄の延長新線が開通し、島の中にも駅が設けられ便利になりましたが、当初は距離的にくっついているクイーンズとを結んでいる古い道路橋と、そこを走るバスしかなく、最初の移住者は苦労したようです。 その為にこのロープ・ウエイ、急遽建築されました。 ここは59ストリート。 
次の橋はハウストン・ストリート迄有りません。
もっとも 36ストリート付近には2車線のトンネルが 2本。 ミッドタウン・トンネルと呼ばれ、ロング・アイランド・エクスプレスウエイと接続する大動脈となっています。 これも有料。
ハウストン・ストリートにあるのはウイリアムスバーグ・ブリッジ。
ハウストンはテキサス州のヒューストンと同じスペル。 何故こちらをハウストンと呼ぶのか、と来た頃に質問しましたら、本来ハウストンと発音すべきもので、ヒューストンと呼ぶのはテキサスの街だけだ、何という愚問か、と言う顔をされました。
確かに家のハウスと同じスペルですからハウストンの方が正しいのでしょう。 しかし何故か、という事は説明してくれませんでした。 
次の橋はチャイナ・タウンのキャナル・ストリートから始まっているマンハッタン・ブリッジ。
イースト・リヴァーに架かっている橋では最大規模の吊り橋。 どの位巨大かと申しますと、上下二段は当然として、下の段、両側通行の車道両側には線路が2本づつ、即ち複々線の地下鉄線路が走っています。 時々4本共電車が走っているのを見かけますが、凄いとしか言いようがありません。 もっとも最近は安全性の問題で2本しか使われていないようです。
この橋の北側、ウイリアムスバーグ・ブリッジとの間には大きな海軍の造船所がありました。 俗に言うブルックッリン・ネーヴィー・ヤード。
私が来た頃に軍艦を作っていたかどうかは知りませんが、必ず何隻かの海軍の艦船が入っていました。 その後、民間業者がかなり大きなタンカー等を建造していましたが(私が見た所27万トンクラスと思えました)建造費が高過ぎ助成金が出ても韓国や日本と対抗できず封鎖され、錆びるにまかせていました。
最近再開発が始まり映画のスタジオ建設の話も出ているようです。

次が彼の有名なブルックリン・ブリッジ。 昔の知り合いのオフイスを訪れた時、海軍の入隊経験でもあるのか、壁にブルクリン・ブリジの下を航行していく航空母艦の写真が掛かっていました。
水兵がズラッと甲板に並んだ出港風景ですが、3万トン以上もある航空母艦が橋の下をくぐっていく様子には圧倒されました。 勿論マストは倒してあるのですが。
ブルックリン・ブリッジが完成した頃はまだ帆船が活躍をしていた頃で、そのマストをクリアする事が必要だったのです。 この橋の事は有名ですからこの位にしましょう。
この下流はもう川口です。 マンハッタンの先端にはバッテリー・トンネルがあり、マンハッタンとブルックリンを結んでいます。
なおこれ以外にハーレム・リヴァーに2本、イースト・リヴァーに 9本(殆どが単線トンネルの複線ですから穴の数は約倍になると思います)の地下鉄トンネル、2本(4線)の列車トンネルが通っています。
ハドソン河に回ると、ワールド・トレード・センターの位置からニュー・ジャージー州に行く地下鉄のトンネルが2本あり、その北にはホーランド・トンネル。
暫く距離を置いてもう一組の地下鉄トンネル。 ワシントン方面と連絡する鉄道トンネル一組。
2車線トンネル3本で構成されるリンカーン・トンネル、そして最後にジョージ・ワシントン・ブリッジとなります。

 橋を渡り高架のままで左にカーブすると 125ストリートの駅。 右側は古い14階建てのアパートが幾つか続いた後、急に環境が悪くなり、一ブロック全てトタン板で窓や戸を残らず囲った一区画も目に入って来ます。
駅のすぐ横のビルもボロボロ。 歴史のあるホテルでしたが放置され、改装を検討中と言っている内に放火に会い、屋根が焼け落ちてひどい状態となってしまいました。この辺はハーレムの中心への入り口といえるでしょう。
この 125ストリートを西に少し歩くと右側にアポロ・シアターという劇場があります。戦前は黒人パフォーマー達の桧舞台として有名で、白人の観客もかなりあったようです。
私も 1970年にジャズを見に行った事がありますが、終わったのは深夜を過ぎて。妻と肩をすくめて早々に地下鉄の駅に舞い戻ったものでした。
最近は再開発が大部進んでおり、旧ホテルの反対側は、足の専門病院。 保守、整備が行き届いて見るとホッとします。
その南並びがこれ又総合病院。 これらの病院がある事で、この付近ひどくなる事は免れたようで、周りの廃虚も整備されてきています。 しかしまだ焼け落ちたビルがそのままになっているセクションが見受けられます。 とはいえ、映画 「フォート・アパッチ」で有名になったサウス・ブロンンクス程ではありませんが。
一時は人が住んでいないアパートの窓をシンダー・ブロックで塞いで色を塗り、ブラインドに見たてて人や鉢植えの影らしいものを描いていた事もありました。
汚いビルに真新しいペンキ、ちょっと滑稽な風景ですがニュー・ヨークらしいといえばニュー・ヨークらしいと言えるでしょう。 これはニュースにもなったので御記憶の方もあるでしょう。
そこここにあった空き地にも 4階から 6階の低いアパートや、俗に言うガーデン・アパートメント形式のビルも立ち始めました。 高層のアパートですと、非人間的な雰囲気の中、居住者も管理責任を負わなくなる、と指摘されています。
なるべく安い利息でホーム・ローンを組み、持ち家にさせるケースが増えて来ているのです。 自分の所有物ともなれば大事に使うという予測の基です。
線路の左側も同じような環境。 戦前の低い屋根と戦後の高層ビルとが混在しています。

駅を出て三分程走ると又14階建ての古い高層アパートが立ち並び、周囲が徐々に高くなったと思うと、複々線のまま突然トンネルに入ります。 中央が複線のトンネルで、両側に単線のトンネルが一本づつ、そして上はパーク・アヴェニュー。 この辺りは掘り下げ工法後レンガで覆い、完全なトンネル。 
5分も走ると所々上から自然光が入って来るのに気が付きます。 ここから駅の構内迄は、構造的にはトンネルではありません。
パーク・アヴェニューの 50ストリートから 5ストリートの間を良く観察すれば、意味は判るでしょう。 何とあの広い通り自体が橋のような構造になっているのです。
大きなトラックでも通ると、道路がかすかに揺れますし、横断歩道付近では、鉄製の大きな櫛の歯状の伸縮継ぎ目を見つける事ができます。
ビル横の鉄格子の空気抜きからは下を通っていく列車の音が聞こえて来たり、場所によっては見る事もできます。 さすがのニューヨクっ子でも、トンネルになっていると思っている人が多いのです。
50ストリートと言えば、あのワルドルフ・アストリア・ホテル。 プラザ、ピエールと並んで外国からの政治家がよく使うホテルです。 これらのホテル、昔からの習慣なのか、泊まっている外国政治家への敬意なのか、その国の大きな旗を一階に垂れ下げます。 大きな会議でもある時は様々な色の旗が並び、旧い様式の建物と溶け込んできれいですね。
そう言えば、ワルドルフ・アストリア・ホテルの地下レベルには今は使われていないプラット・ホームがあります。 その昔、大映画スターや著名人、政治家等が一般の人達を避けて旅行する時に、このホームから専用列車を出させていたという事です。
最後に使われたのは、どうやらロバート・ケネディの遺体を運ぶ専用列車を出した時。 もう30年以上前の話です。
ポイントを通過する度に線路の数は増え、西の端は留置線になっている事もあり、見えない程。やがてホームに入ります。
終着駅グランド・セントラル・ターミナル。 ステーションではありません。ステーションは単なる駅。 ターミナルは終着駅。 其処でターミネイト、終わるという語源からきています。 ですから上野駅の東北本線は上野で終着。 上野始発列車が入って来る時は、機関車がお尻に付いて逆向きに入ってきました。
函館や青森もその部類に入ります。 厳密に言えば車止めがホームにあり、そこで行き止まりになっているのがターミナルと言えるでしょう。 都心の私鉄の始発駅の殆どがそうなりますね。
そう言えば「終着駅」という映画がありました。 ジェニファー・ジョーンズ、モンゴメリー・クリフト、まだ子役のリチャード・ベイマーが出演で舞台は終着駅。
もっとも本来の題名は「アメリカ妻の不貞」という日本の題名とは全くかけ離れたもの。 わざわざ「ターミナル・ステーション」と英語の題名を横に入れて新聞広告をしていたという記憶があります。 この映画の原題を知っている日本人は少ないでしょう。
電車のホームはちょうど旧パンナム・ビルの地下に当たります。

この終着駅、何年も続いていた改築工事が殆ど終わり、余計な物は取り払われ、壁や柱の大理石も磨かれて、店を出している部分の感じは別としても、新築された頃の内装に近くなったようです。
大天井も永年の垢が落とされ、有名な星座の絵と電光の星も修復されました。
西側の階段と対称にする為、等という理屈の為に東側にも階段が付けられ、昔を知っている人には少々不自然。
上下二層のプラットホーム群以外に、地下鉄が3線来ています。
私が来た頃には、東側の階段が作られた辺りには映画館があり、ニュース映画を連続上映していました。
新築当時の宣伝では、この駅の構内だけで生活が出来ると豪語していたようです。 床屋、本屋、デリカテッセン、エレベーターで上に行くとギャラリーに写真スタジオ迄あったようです。
この建築は現在の目で見ても、外部、内部共御立派。 当時の規模からいえば、東京駅の比ではありません。
参考迄に書きますと、グランド・セントラルがオープンしたのは 1913年2月、東京駅は 1914年の12月です。 グランド・セントラル・ターミナルの事は書き出すと切がありませんし、どなたか紹介されていると思いますので、この辺でやめておきます。


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